昔と今をつなぐもの 〜 宇多喜代子「暦と暮らす」を読む

  • 2021.10.12 Tuesday
  • 21:36

 

昔と今をつなぐもの 〜 宇多喜代子「暦と暮らす」を読む

 

鈴木牛後


宇多喜代子「暦と暮らす 語り継ぎたい季語と知恵」(2020年/NHK出版)は、「NHK俳句」の連載をまとめたもので、暦(=季語と歳時記)にまつわるあれこれを、著者の生きてきた、主に昭和のころの生活の記憶とともに綴っている。


宇多喜代子は昭和十年生まれ。九歳で終戦を迎え、その後、昭和、平成、令和と世の移り変わりを眺めてきた。さらに、宇多の父母は大正生まれ、祖父母は明治生まれで、三世代同居の宇多家では「明治以来のむかし式」の和風が日常で、それが無理なく当たり前のこととして生活に溶け込んでいたという。そんな経験を大切してきた著者は、本書を編んだ動機を「はじめに」の中で次のように書いている。


(前略)流動する世情が切実であるがゆえに、朴訥な暮らしの日々の体験が大事に思えるのです。ここに書きとどめたことは、暦を目安にして暮らしていたまことにささやかな日々の出来事ばかりです。(中略)おおくを手でこなすという生活はまことに不便でしたが、不幸ではありませんでした。その断片を綴ったのがこの『暦と暮らす 語り継ぎたい季語と知恵』です。


私の父母は著者と同世代だが、父が転勤族で、早くから核家族となったため、我が家の生活様式は戦前のそれとは断絶したものだった。もちろん、私が子どものころはストーブが石炭だったとか、電話がなかったとか、今とはかなり違うのは確かだが、それでも父母の思考の方向は常に近代へ近代へというものであり、伝統的な暮らしを大切にするというような考えはあまりなかったように思う。そしてこのことは、我が家だけのものだったわけではなく、かなり一般的なものだっただろう。


著者が私の父母のような考えに傾かず、昭和の生活を愛おしく思いつづけてきたのは、言うまでもなく俳句とともに生きてきたからだ。年表には著者は十八歳のときから俳句を始めたとあるから、ずっと歳時記の中の世界から離れることなく過ごしてきたことになる。もうそんな俳人は著者の世代が最後であるということも、後の人々にそれを語り継いでいくという使命感につながっているに違いない。


さて本書の内容だが、本書は二月の立春から始まって、春夏秋冬と季節の順に、季語の解説を交えながら、名句の背景や自身の記憶を書き綴る。


たとえば「燕」。当時近代文明とは無縁だった中国雲南に何度も通ったという著者。そのときに見た燕のことを書いた一文は鮮やかだ。


ある春、いつも世話になっていた村の某宅で寛いでいたときのこと、眼前を燕がツィーッと過っていったのです。なにかの合図を受けたように一瞬そこにいた村人数人と私たち日本人数人の視線が燕を追い、暗黙のうちにある季節の到来を「見た」と思いました。》


これは中国での一こまだが、ラジオやテレビのない時代は、日本でもこのような光景はいくらでもあっただろうと著者は言うのである。さらに《来ることの嬉しき燕きたりけり 石田郷子》をひいて、《この句の本意をもっとも的確に理解するのは、季語を情報で理解するネット俳人よりも、(中略)「燕」の到来を農耕の目安にしてきた田んぼの人々ではないかと思いました。》と書いている。「ネット俳人」という言葉にはいくらか偏見が籠められているようにも思えるが、著者の言いたいのは、季節の移り変わりの機微は机上ではわからないということだろう。


道北には燕がほとんど飛来しないので、私にもこの句の本意は本当には理解できないのであるが、たとえば郭公の声を聞いたときの思いなどはこれに近いものがある。当地に限らず北国には、「郭公が鳴いたら豆を撒け」という俚諺が広く知られているが、これなどは季節を身体で実感をもって受け止めるという、その最たるものだ。私は豆を作らないのだが、それでも桜が終わり郭公が鳴きはじめると、本格的な農作業シーズンのスタートを否応なく意識させられる。そして頭も身体もだんだんと農作業仕様へと変化していくような気がするのだ。


また、「わが観天望気」という項では、天気予報のなかった時代の祖母のエピソードが描かれる。祖母が藁製の土間箒で土間を掃きながら「今晩あたり一雨来そうだね」と言い、その理由は箒が重いからだと言ったという場面だ。これはよくわかる。牛舎の搾乳通路はコンクリートの上にゴムを貼ったものだが、ゴムは剥き出しになっているのではなく、牛の糞と滑り止めの石灰が混じったものにいつも薄く覆われている。それが湿度が高いと、長靴の底を通しても少し柔らかく感じられるのだ。それで雨が近いということを察知するということが日常的にある。


そのように考えると、昭和の暮らしと現代の生活とはまったく断絶しているわけではなく、ちょっとしたところでつながっていることがわかる。それを感じられるか、感じられないかは、受け取る側の準備次第だということだ。俳句を作ったり読んだりする行為は、それを絶え間なく再確認することなのではないかと、本書を読んで思った。


もちろん、私たちはつねに新しい表現を求めて俳句を作っているわけだが、新しい表現は最新の生活様式の中にだけあるわけではなく、昔の人の暮らしや俳句と、現代の間を行き来するところからも生まれると改めて感じた。

 

(「雪華」2020年7月号)

 

 

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